出生前診断 クアトロテスト
出生前診断はデリケートな問題です。私は38歳という年齢柄、悩んだほうです。
ダウン症候群の赤ちゃんを妊娠する確率は、母親の年齢上昇に伴い高くなることが知られています。そして、妊娠初期におなかの赤ちゃんがダウン症かどうか検査することができます。
私が通っていた病院は、検査をすすめない方針でした。妊婦側が希望した場合のみ、遺伝カウンセリングを受けてどの検査を行うか、決定することになります。
どんな検査か、そしてどうしたか、下記のとおり。
1.母体年齢と確率の統計
2.出生前診断の種類,私が通っていた病院で検査を受ける場合の費用
(1)確率を出す検査
- クアトロテスト(3万円)…母親の血液採取。母体の年齢のみに依存しない確率を知ることができる。擬陽性がとても多い。
- 新型出生前検査 NIPT(16万2千円)…母親の血液採取。99%正しい結果を得る事ができる。私が検査を受ける週数だったころ、京都では検査機関がなかった。
- NT(?万円)…画像診断。京都に検査機関なし?
(2)結果を確定する検査
- 羊水検査(?万円)…おなかに針をさして胎児を傷つけないよう、羊水を取る怖い検査。胎児の染色体を調べるので結果が確定されるが、300人に1人は流産の可能性があるとされるやはり怖い検査。クアトロテストの結果、かなり高い確率が出た人は引き続きこの検査を受けることが多い。
- 絨毛検査(?万円)…説明を聞いたけどよく覚えていない。
3.どうするの?
主人と一緒に病院で遺伝カウンセリングを受け話し合ったところ、検査するのはいいけど、もし病気のあることが確定したらどうするの?となりました。
そう、どうするの、、?
どんなユニークな個性を持って産まれてきても、全部受け入れますという気持ちにはなれない自分に、悩みました。
また、大野先生の本を読んだりしました。
「出生前診断」を迷うあなたへ 子どもを選ばないことを選ぶ (講談社+α文庫)
1ヶ月くらい、答えを決められないまま妊婦健診を受けていましたが、おなかの赤ちゃんはどんどん人間らしく成長し、まあかわいいこと。
この元気に動く心臓を、どうするか決めるなんて恐ろしくてできません。それに自然流産の多い妊娠初期を生き延びた赤子の生命力をそのままにしておきたい。
検査を受けても受けなくても、このままでいたいなという気持ちが固まってきました。けれど、どういう状態か知るためにクアトロテストは受けることにしました。もし高い確率が出た場合、出産までの長い間、母体がどんな精神状態になるかよく考えてくださいと遺伝カウンセラーの方には言われましたが、知る事なしに先には進めないと判断しました。
1/295より確率が高ければ陽性と判定されます。検査の結果、私は1/116でした。
つまり陽性ですが、1/116ってパーセントに直すと、0.86%です。1%以下のことなんて気にしてられないよな、、、と思い、ショックな数字ではありませんでした。
検査結果を聞いてからは、出生前診断のことで悩むことはなくなりました。
次もし妊娠したら、たぶんNIPTを受けるんじゃないかなと思います。
産院決め -分娩台よ、さようなら 大野明子-
家から歩いていけるところに、すっごく人気の産科医院があるため妊娠発覚から検診に通っていましたが、実際どこでどう産むかのビジョンはありませんでした。
妊娠9週で母子手帳をもらうころ、まだ全然安定期でもないのに、ここで産むなら入院予約してくださいねって言われます。7ヶ月も先だけど、どうしたらいいのか、、。
今の病院に全然不満はないし、先生もやさしいしこのままここで産むのか。はたまたはじめからNICUのある大学病院にしておくのが安心なのか。そもそも私は普通分娩がしたいのか。無痛分娩とか、自宅出産とかいろいろあるみたいよ?選択肢は数あれど、未知のことすぎてどうしたらいいのかわかりません。ひとつ決まっているのは、里帰りできる実家はないため、京都で、主人と二人でお産に挑める環境であるということ。
困った私は、主人と長年おともだちの看護師さんへ相談に行きました。ちょうど1年前に出産された時期でもあり、医療の専門家目線で、産院決めの話を聞けるなんてこんなありがたいことはありません。
大学病院のお産ってどんなの?院内見学はできるの?とか今私が通っている病院の評判聞いたことありますか?産む時の姿勢っていろいろあるみたいですけどどうされました?とか聞いて安心しまくり、帰りには本をたくさん貸してもらいました。
その中に、今後の妊婦生活を決定づける本がありました。大野明子先生の、分娩台よ、さようならです。
分娩台よ、さようなら―あたりまえに産んで、あたりまえに育てたい
大野先生は東大卒業後、東大で化学博士として研究されてましたが、自身の出産が納得いかなかったことを機に医大へ入り直し、産科女医になられたというとんでもない頭脳の方です。
分娩台での出産は重力にさからっているため不自然であること、昔のように自宅で出産することがあたりまえだとの方針で、お産に精進されてることが書かれた本です。
ただ、そのあたりまえを実践するため、妊婦の生活に対しかなりスパルタであり、毎日3時間歩きなさいと指導されます。妊婦は安静にという思想の方ではありません。妊娠初期からだって歩いていい、3時間歩いてとにかく太らないこと、体を暖めること、栄養をちゃんととることなどなど、あたりまえに産む力を蓄える生活環境について、みっちり書いてあります。
そんなアスリートみたいな生活、仕事しながら無理、、という女性も多いと思いますが、妊娠しても働かせるような夫は最低だとはっきり言い切ってしまうほど、超弩級のスパルタぶりです。家庭の事情とか待ったなしです。
これを読んで、私は産む事に対し病院まかせの考えでいたけど、大事なのは産むまでの体づくりだなっと実感しました。
今日どれだけ歩いたか、今日何を食べたか、湯船で体を暖めたかなんていう毎日の積み重ねが、お産の瞬間につながっていると思いました。
臨月になって、この本に書いてある理想の妊婦生活をどこまで実践できたかと言われれば、100点満点中60点?65点?くらいの採点ですが、ただぽけーっと10ヶ月すごすよりは、この本に出会い、その日を迎えるための準備ができたことを感謝する気持ちです。今まで12回検診を受けましたが、毎回順調、順調、赤ちゃん元気!で過ぎていったのもこの本のおかげかも。それもこれも、この本を貸してくださり、またその後もずっと相談に乗ってくださった方のおかげです。
産院は、検診で通っている病院をそのまま予約することにしました。
つわり
私は判定薬が陽性になった妊娠4週から、安定期に入る妊娠16週までつわりが続きました。10月末から、お正月が終わるくらいまでです。
結局1度も吐くことはありませんでしたが、いつも胃の調子が悪く、おなかが空くと特に気持ちが悪くなるといういわゆる食べづわりでした。いつ吐くか、という恐怖は常にあり、疲れているときはマジで吐いちゃう5秒前になることもありました。
食事はいつも通り、何でもおいしく食べられました。妊娠前と何か変わったことがあるとすれば、とにかく果物を欲したことです。りんごみかんバナナキウィ、スーパーに行くたび何か果物を買って帰りました。お酒を買わなくなるのでエンゲル係数が下がるかと思いきや、普段買わない果物に圧迫され逆に増えてしまいました。
ベタに柑橘系を買うことが多かったですが、甘夏に八朔、いろんな種類がありますね。くるねこさんのやり方で皮をむいて食べてます。
ほかには、フラフラしてあんまり歩けないのにびっくりしました。外を歩いていると頭の上から5倍の重力がかかっているような、身長が1メートルくらい縮んだような感覚でフラフラして、どこかに座りたいとベンチを探し、キョロキョロするばかりでした。
何より、これは妊娠初期から臨月までずっとですが、何もしたくない、、とにかく不安不安というマタニティブルーが強かったです。涙もろいし。
妊娠したといっても、育つかどうかはわかりません。人間が人間であるかぎり自然流産は仕方のないことで、安静にしていても防げないことです。わかっていてもそれが怖くて怖くて、家から出る気になりませんでした。基礎体温が高いうちは大丈夫だろうと、1日に何度も体温を計っていました。
そんな時、産婦人科医である宋美玄さんの妊娠記録を読みました。妊娠しても週1回東京から岡山に出張したり、つわりでゼリーしか食べられないまま外来で診察を続けていたとかいうのを読んで、そんなに動き回っていいんだな、、!と衝撃を受けベッドからむくりと起き上がったこともあります。
つわりの症状が人それぞれ違うのも、胎児からのメッセージであり母体に必要なものなんだろうとぼんやり思います。マタニティブルーがきつかったとはいえ、私には、静かに内省する時間がきっと必要だったのです。
渚と澪と舵-桐島洋子
桐島かれんさんが、葉山での暮らしをインスタグラムで残しておられる。調度品やお料理のハイセンスな事といったら海外の貴族のようで、どんな環境で育てばそうなるのか、かれんさんのお母様が書かれた本を読んでみたくなった。
お母様の洋子さんが3人の子どもを授かった時期のことを、青春の総決算として1冊の本にされている。
洋子さんの文章は文学的でありながら自己愛のナヨナヨしさはかけらもなく、かつ1行の無駄もなくユーモアがあり、自立した女性にしか書けない素晴らしい文章だった。
洋子さんは、すでに妻のいるアメリカ退役軍人と激しい恋におちて長女のかれんさんを妊娠する。当時、洋子さんは出版社でバリバリ働いていたけど女性は結婚と同時に退職するという会社規定がある時代、独身で子どもを産むことなど公にできるものではなかった。
そこでゆったりとした服装で出勤して会社には妊娠を隠し、妊娠8ヶ月からは腎臓病といつわって長期休暇をとる。産後1週間でかれんさんを信頼できるシッターさんに預けて職場復帰。お相手の彼とは法律的に所帯を持つ事はないが、翌年第2子を妊娠。
さすがに2年続けて病欠は使えないので、長期で海外旅行に行かせてくださいと会社に頼む。ライターには世界を見ておく事が大事だからと。
会社は、多忙を理由に休暇を認めず、洋子さんは仕方なく退職することになった。
だが、海外には行く事にした。妊娠8ヶ月!ひとりで!船やらなんやらでロシアまで行って、そこから汽車とかいろいろでヨーロッパを横断しフランスまで。フランスから日本へ向かう船の上、クリスマスの日にノエルさんを出産、、、!船の上で産めば医療費はタダだから、無職にはありがたいという計画を本当に実行してしまう。
ノエルさんも預けて、生物学上の父親と一緒に海運業やベトナム戦争の従軍ライターとして生計をたてる。モタモタしてるうちに2人の父親とは結婚しないまま愛想がつきてしまったが、第3子を妊娠、ローランドさんを出産。ローランドさんも産後間もなく病院に預ける。
女性は結婚と同時に退職規定があるような日本の風習では、とても3人の子どもを養えないと思った洋子さんは、かれんさんのみ連れてアメリカへ。何のコネもないままアメリカで社交を広げ、仕事を探し、預けている子どもたちの養育費を送金し、何年か後にはやっと子どもたちみんなをアメリカへ呼び寄せ、一緒に暮らせるようになった。
産まれたばかりの子どもを預けるなんてとか、法律上父親がいないままなんてとか、たくさん批判もあったかもしれない。けど今後の見通しもなく、生き方の先例もない孤独のなか、押しつぶされそうな不安で朝を迎えていたであろう洋子さんの気持ちに思いを馳せる。私もこれから何があっても、子どもの成長を見守らなければいけない。願わくば洋子さんのような聡明さがこれからの人生を照らしますように。
ノエルさんを船上で出産するとき、一番お気に入りのドレスで身支度し、ボーボワールの自伝を読んでひとり陣痛を紛らわしていたという。私もそんな理知的な出産を迎えられたらいいんだけれどと、ぼんやり想像しています。
ビル・エヴァンスについてのいくつかの事柄-中山康樹
仕事していたころ通勤電車で聴く音楽は、とにかく気分をあげるもの、そして飽きないよう無作為であることにチャンネルを合わせていた。iPhoneアプリの海外ラジオでTOP HIT40聞いたり、SURFミュージックで心を伸ばしたりしていた。中之島の戦士にはそういうのがぴったりだったのだ。
妊娠してからは心をなぐさめる音楽を求めるようになり、ビル・エヴァンスの愛らしいワルツ・フォー・デビイが何より気持ちに寄り添った。
どんな人なのかもっと知りたくなり、中山康樹さん(元スイングジャーナル編集長)が書かれた自伝的なものを読んでみた。
思ったより大男であること、音楽に対してはシリアスだがおしゃべり好きでユーモアがあること、自らをかなり客観的な視点でとらえて作品を残していたことなど書かれた序章がさっそく面白く、ずっと面白かった。
1929年に生誕。まだ小さいころ、お兄ちゃんが先にピアノを習っていて、そのレッスンを見ているだけで全部弾けてしまった神童だったこと、
大学で教員免許をとるがすでにプロミュージシャンとしてギャランティを獲得していたこと、
マイルス・ディヴィスの目にとまりバンドメンバーに抜擢されるが、白人ゆえのバッシングを受けクビになること、けどカインド・オブ・ブルー制作のためだけに呼び戻され、モダンジャズの傑作を世に残すこと。
そして1959年、黄金期と言われるトリオの結成。ベーシスト スコット・ラファロとの、神懸かったインタープレイ。
1961年6月25日、リバーサイド4部作となるヴィレッジヴァンガードでのライブ録音。そのわずか11日後に起こった、ラファロの交通事故死、、。
関係ないけど6月25日って私の誕生日だし、ちょっと思い入れがあります。
そのあともトリオにこだわり、いつもメンバー集めに四苦八苦していたこと。またお金も、ドラッグに消えていくため常に逼迫していたこと。
そして1980年に訪れる死のわずか4〜5日前まで、ライブハウスのピアノにかじりつき、ドラッグによる肝硬変でむくんだ指が隠しきれていなかったことなどなど、彼の膨大なライブ出演、メンバー編成、アルバム制作などが時系列にそって読みやすく書かれてありました。
ジャズ界の偉人として歴史上の人物に置き換えるなら、織田信長か坂本龍馬くらい伝説的かと思っていたけど、まだビル・エヴァンスが生きていた頃のアメリカ人には、いつもライブハウスで演奏している身近なピアニストの一人だったらしい。それを証拠にヴィレッジヴァンガードで録音された4部作には、ガヤガヤと話和む人々の声、グラスを傾けるカチャカチャした音が一緒に録音されており、ウェイターがテーブルにお酒を運んでいたであろう空気感が伝わってくる。ビル・エヴァンスが目の前で演奏する中くつろぐことが、観客にとってごく当たり前の光景であり、なんと豊かな時代だったのだろうか。
自伝を読んだところで、なぜどうしようもないヤク中の演奏に惹かれているのか理由はさっぱりわかりませんが、リリカルなビル・エヴァンスの音色は妊娠期間中のテーマソングとしていつまでも覚えていると思うのです。